哀愁とやさしさが交じり合う100編の記憶

又吉直樹さんの自伝的エッセイ。
雑誌の連載がきっかけで書き始め、数年後、単行本として出版されたのがこの「東京百景」だ。
本書では、18歳で上京してからの出来事や考えたことが印象深い場所とともに綴られている。


振り返ってみると、初版が出版された時期は、コンビでバラエティーなどのテレビ番組によく出ていた時期でもある。
しかし、本書では、華やかな芸能生活からは想像できないような“ドブの底を這うような日々”が描かれている。


上京して初めて暮らした三鷹
風呂なし・トイレ共同のアパートがあった吉祥寺。
バイトの面接で落ち続けた歌舞伎町。
どれも個人的な場所ばかり。


中央線沿いの街が多いことや具体的な固有名詞がたくさん出ていることから、当時の筆者の住所が判明してしまうのではないかと思うほどだ。
そして、それぞれの場所で綴られているのは、仕事もお金もなく敗走につぐ敗走の日々・・・。


だが、本書は、暗いだけの体験エピソード集などではない。
筆者が好きな本と音楽と散歩、そして太宰治で溢れている。
独特のユーモアが滲(にじ)み出ている場面では、思わず笑ってしまいそうになり、
芸人仲間と過ごした場面や、仕事が増えている様子がうかがえる話では安堵感でいっぱいになる。

 

例えば、「阿佐ヶ谷の夜」という話。
1999年の井の頭公園で、上京したことを後悔した筆者はある誓いを立てる。
それは、「10年後、太宰治の生誕100年目に太宰を偲ぶライブをやること」と
「その目標を果たすために死に物狂いで準備をすること」。
そしてついに、10年越しの夢が叶う。


読みながら、まるで自分が筆者の母親になったような気持ちで安堵した。

また、「池尻大橋の小さな部屋」の話を最初に読んだときは、涙が止まらなかった。
この話は、芥川賞受賞以降2作目である『劇場』の原点といえる内容だ。
仕事がなく貧乏でどうしようもない日々を送っていたある日、彼女と出会う。
心やさしい彼女と身勝手な自分。


数年の月日が経ち、いつか彼女に恩返しをしたいと思いながらも、結局、叶うことはなかった。
この話では、彼女の筆者に対する愛、筆者の彼女に対する愛が繊細なまでに伝わり、切なさを倍増させる。


「愛」という言葉は一度も使われていないが、この9ページの節々には愛で溢れている。

 

現実と空想の狭間を楽しませてくれるエッセイ集。
筆者の生活に付随した風景を追体験するかのような感覚で読み進めるうち、著者に親近感すら湧いてくる。


本書を読み終えると、「10年後、自分は何をしているのだろう。まだ〇〇にいるのだろうか。」と翻(ひるがえ)って自分に問いかけてみたくなる。
そして、自分の街を散歩してみたくなる。
寝室かリビングの本棚に置いておきたい一冊だ。